ならぬことはならぬものです
東京書籍が出版を予定している平成23年度小学6年生用社会科の教科書に会津藩校日新館が紹介されるという。そこには会津藩士の心構えを定めた「什の掟」や「文武両道」を重んじた教育方針などが紹介されているという。5月12日に掲載された福島民友新聞の記事である。
会津藩についての深い知識はないが、以前に「敗者から見た明治維新」(早乙女貢著)を読んだことがある。中でも興味深かったのは、日新館で教育を受けた人々の敗戦後の動向である。
アメリカで物理学を学んだ山川健次郎は東京帝国大学の総長になる。兄の山川浩も東京高等師範学校の校長になる。
井深梶之助はヘボンのあとを受けて明治学院の第二代総理になる。山本覚馬は京都の寺を借りて洋学所を開き、英学、蘭学を教授していたが、京都で新島襄と出会い新島の同志社結社に協力し、後に二年にわたり同志社の臨時総長を務めた。また、山本の妹八重子は新島と結婚し、兄と共に同志社の発展に尽くした。
また、日新館教育の良き影響を受けた女性たちもいた。若松賤子(本名は松川甲子子)は「小公子」を翻訳した女性文学者第一号であってフェリス女学院で教師を務めた。その外、岩倉具視を団長とする遣米欧使節団の中に山川兄弟の妹、12歳の捨松(本名咲子)がいた。捨松は帰国後日本人女性の近代化に大きな功績をあげた。
この使節団の中には21歳の石田五助(白虎隊士)が随行員として加わっていた。石田は後に長崎県と福島県で知事を務めた。会津藩は、このほかにも多くの優秀な人材を世に輩出したのである。
『日新館教育は人材の育成につとめていた。その成果が敗亡の悲惨な状況の中から美しく、たくましい芽を萌出させた』とは著者の弁である。
S・I