1 「たとえ」について
イエス様は〈たとえ話の名人〉でした。譬えを用いるのは、「天国」、或いは
「神の国」が何なのかを分かりやすく説明することが目的でした。『マルコ』4
章だけで4つのたとえ話が出て来ます。今日の聖書は「種を蒔く人のたとえ」
です。
私は農家に生まれ、今も家庭菜園をやっていますので良く種蒔きをします。
つい先日は「つるなしいんげん」の種を蒔きました。まず石灰を入れて畑を中
和し、次に畝を作り、下に堆肥と化成肥料を入れます。それから種を等間隔に
埋め、水をかけます。丁寧な作業です。でも、今から2000年前のパレスチナで
は、①道端に種を蒔くことも、②石だらけの所に蒔くことも、③茨の生い茂る所
に蒔くこともあったのでしょう。全部が④「良い土地」ではなかったのです。
この種とは「福音の種」、即ち「イエス様の言葉」のことです。道端とか、石だらけ
の土地とかは、それを聞く人間の心を指しています。
2.種の持つ力
これら4つの中で、「石だらけの所に蒔かれた」とは、御言葉を聞くとすぐ喜んで受
け入れても、艱難や迫害が起こると信仰を捨ててしまう人を指しています。 つい
最近読んだ『二つの勲章-ダミヤン神父の生涯-』から、話をしたいと思います。
ダミヤン神父はハワイのモロカイ島で、ハンセン病の人と共に生活し、最後には
自らもハンセン病で亡くったベルギー人の神父さんです。ハワイではハンセン病
に罹ると家族と涙涙で分かれ、モロカイ島に隔離されました。この病気には「ろう
そく病」という呼び名もありました。皮膚の一部が崩れ落ちて歪(いびつ)になる恐
ろしい病気だからです。
ダミヤン神父の教会に来ていた一人の女性がハンセン病に罹ってしまいました。
本を少し読んでみます。「ダミヤンは彼女のために祈ろうとしました。でも女はその
手を払いのけ、『祈りなんていらない。わたしは、もう祈ろうとも思わない』。『なぜ、
そんなことを言うんだ?』。女は流れる涙を拭おうともせずに言った。『神が私を見
捨てたから。神が先に私を見捨てたから、わたしも神を見捨てるのです』と。この悲
しい別れの後、ダミヤン神父は誰もが嫌がるモロカイ島への移住を決意しました。
島に移住したダミヤン神父は、軽症の患者の力を借りながら、泉から水道を引いた
り、教会を建てたり、ブラスバンドを結成したり、病院や学校を建てたり、精力的に祈
り働きました。ハンセン病に罹ってこの島のどこかにいる筈の女性は、一度も教会の
礼拝に姿を見せませんでした。
そんなある日、『先生、すぐに来てください。死にそうな女の人がいるんです。カトリック
の信者です』との願いがありました。行ってみると、長いこと探し求めていた女性でした。
彼女は、『ああダミヤン先生、来てくれたんですね。神様・イエス様なんか信じられない、
二度と教会なんか行くものかと思っていましたが、最後の時になったら先生に祈って欲
しいと思いました。こんなに長い間、神様を恨んで神様から離れていた私を神様は赦し
てくださるでしょうか』と言いました。『もちろんだよ!』というダミヤン神父の声を聞き、
彼女は安心したようににっこり笑い、『神様ってよい方ですね』という言葉を最後に、息を
引き取ったのでした」。
福音の種が蒔かれた彼女の心は、石の多い土地のようでした。すぐに受け入れたもの
の、ハンセン病に罹ると、その信仰を捨てたからです。でも、彼女の心に蒔かれたイエス
様の愛の言葉は死んでいませんでした。驚くべきことです。
聖書の言葉には力があるんです!死を前にして、彼女の心には神を信じる心が復活した
からです。
「御言(みことば)には、あなたがたのたましいを救う力がある」(『ヤコブの手紙』1章21節)。
この聖書の約束を鮮やかに思い起こさせる出来事です。