今日の聖書の結論は、1節前半の「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」です。イエス様は善行(善い行い)は素晴らしいことだけれども、人から注目されたり褒められたりすることを期待して行うものであってはならない、と言っています。
私たちは誰しも、人に見ていてもらいたいし、褒めてもらいたい者です。幼
稚園児の口癖は「お母さん見てて!」、「園長先生見てて!」です。そして何度
も練習して遂にできるようになった「逆上がり」をやって見せて、「凄いねー!」
と褒めてもらいたいのです。この褒めてもらいたい欲求は大人になっても変わ
りません。イエス様の時代のリーダーであった律法学者やファリサイ派の人た
ちは特にそうでしたのでした。だから彼らは施しをする時には、わざわざ人の
目につきやすい会堂や街角でしました。まるで人前でラッパを鳴らすような「見
え見え」の行為です。それに対してイエス様は、貧しい人々に施しをすること
は素晴らしいことだが、大切なのは〈隠れてすること〉、〈何気なく自然にする
こと〉だと教えているのです。
今日の聖書で重要な言葉は、4節の「隠れたことを見ておられる父」です。
これは「神様はあなたがたの隠れたことを見ておられます」という意味です。
明日学ぶ6節には「隠れたところにおられるあなたの父」という言葉も出て来
ます。これらを合わせると「神様は、隠れたところから、わたしたちの隠れた
ことを見ておられます」となります。
では、「隠れたこと」とは一体何でしょうか?貧しい人々に施しをしている行
為ではなく、施しをしている時の心、動機です。どういう思いで施しをしてい
るかが大切だと言っておられるのです。先ほど歌った讃美歌520番の2節に、
「与えて 報い求めぬ、まことの 愛の人と」
とありました。言い換えると、「まことの愛の人とは、与えても報いを求めない
人のことです」となります。難しいことです。人間は皆報いを求めたいのです。
見てもらって、注目されて、立派だ!と褒めてもらいたいのです。でも神様は
施しという目に見える行いを評価されるのではなく、隠れている心を見て評価
されるお方です。
旧約聖書に、「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(『サムエル記上』16
章7節)という有名な言葉があります。堕落したサウル王に代わる新しい王を
探していた預言者サムエルに神が与えた言葉です。人間は、美しいとか、かっ
こいいとか、強そうだとか、外に見えるもの(外見)に目を奪われ易いもので
すが、神は心を見るお方なのです。
隠れて良いことをすることはとても難しいことのようですが、聖光学院生は
自然にそれを行っています。7年前のある朝、藤田駅方面からの電車が伊達駅
に着きました。すると、2~3人の聖光学院の男子生徒が、向かい側の座席に
置き去りになっていたゴミを持ち、伊達駅のごみ箱に入れて登校して行きまし
た。それを同じく伊達駅で降りた一人の婦人が見ていました。人が置き去りに
した列車内のごみを拾って、何ともなかったようにゴミ箱に捨てる、これは立
派だとその夫人は感激したのです。黙っていられずに学校に電話をくださいま
した。勿論、彼らが何年何組の誰か分かりません。でもこの生徒たちは素晴ら
しいと思います。今日のイエス様の教えを十分クリアーしています!
先の日曜日、私が保原教会の礼拝に招かれた時のことです。私の送迎をして
くれた老夫婦は、学校のすぐ南の団地に住んでいます。車の中で、「校長先生、
この冬の大雪の時、気が付いたら聖光学院の生徒さんが雪掻きをしてくれてい
たんです。我が家の前もです。きっと寮に入っている野球部の生徒さんですね。
大助かりでした。有難うございました!」と言ってくれました。これも人に見
てもらいから、褒めてもらいたいからしたことではなく、自然にそっと行われ
た善行です。
最後に、牧師で詩人の河野進先生の「花」という詩を2回読んで終わります。
花
花は
自分の美しさに気がつかない
自分の良い香りを知らない
どうして人や虫が
よろこぶのかわからない
花は自然のままに
咲くだけ
かおるだけ
※この説教は後日、HP校長挨拶のページでも公開する予定です。