いつも当ブログをご愛読いただき、感謝いたします。
本校は本日2学期の終業式を終え、冬季休業に入ります。
そのため、当ブログは一時休止し、再開は1学期の始業式(1月11日)となります。
どうぞご了承下さい。
それでは皆様、良いお年をお迎えください!
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いつも当ブログをご愛読いただき、感謝いたします。
本校は本日2学期の終業式を終え、冬季休業に入ります。
そのため、当ブログは一時休止し、再開は1学期の始業式(1月11日)となります。
どうぞご了承下さい。
それでは皆様、良いお年をお迎えください!
本日で二学期が終了となりました。他校に比べて少し遅い終業式ですが、みなさん大変お疲れ様でした。
今年は、3年に一度の一般公開学院祭や校内競技大会・マラソン大会、そして2年生の修学旅行など多くの学校行事がありました。特に学院祭では、みなさん初めての体験にもかかわらず、創意工夫をして若い力を十二分に発揮してくれました。改めて「若い力っていいなー」と感じました。
さて、話は変わりますが、2011年の終業式にあたって掲載した≪大きな覚悟≫と題したブログの記事を読み直してみました。
ブログには様々な苦難を乗り越えようとして、ひた向きに頑張った生徒の様子が記されていました。みなさんは当時小学生だったと思いますが、早いものであれからもう5年9ヶ月が経ちました。
今日は、その一部をご紹介させていただきます。
「前段省略~3月11日の東日本大震災以降、大きな困難に見舞われた中での学校生活でしたが、生徒の皆さんも、保護者の皆さんも、先生方も本当に我慢強く頑張っていただきました。
・余震や放射能汚染の心配があったにもかかわらず、被災した方々の
苦労を思い、積極的にボランティア活動に参加してくれた人。
・多くの国家試験にチャレンジして、高度な資格取得に努力した人。
・様々な制限をうけながら、被爆低減行動を励行して練習に励み、見事
上位の成績を収めた人。
・深刻な風評被害が心配される中、精一杯の努力で進路を決定できた人。
または、決定に向けて必死で頑張っている人。
・本校50年間の歴史に新しい1ページを刻んでくれた人など。
この大変困難な状況の中で、最後まで決して諦めず、まことに苦しい思い
の中から何とか「希望」という言葉を振り絞って体現してくれた人がたく
さんおりました。
本当は泣きたいほど、心が折れそうなほど辛くて苦しい現状に、何とか一筋の光明を見い出そうと・・・、そして、今後長期にわたる復興に向けての生活に自分自身の決心として『大きな覚悟』をしてくれたのだと思います。
みなさんの真摯な努力を誇りに思い、こころから賞賛の拍手を送ります。
忘れようのない苦しかった今年を憂うことなく、困難の中ゆえに発見できた家族の絆や思いやりに感謝してゆく年を送り、新たな希望あるよき年を迎えましょう!」
今更ながら、みなさん本当に良く頑張って成長してくれました。大切なことをいつまでも忘れずに前を向いて進みましょう。 教頭 遠藤
クリスマスやイブをだれと過ごすかが多くの人の関心となっています。最近は、クリスマスをひとりで過ごす「クリぼっち」が増えてきたというので、「クリぼっち」向けのお店や商品もあるそうですね。この呼び方自体、「クリスマスなのにひとりなんだ」というさみしい気持ちや、「さみしくなんかない、私はこれでいいんだ」という強がりな気持ちが表れているかもしれません。
いまから2016年とちょっと前、最初のクリスマスも、そんなさみしい、心細い気持ちになりそうな夜でした。
ヨセフとマリア、このユダヤの若夫婦は、ローマによる人口調査の登録のため、生まれ故郷のベツレヘムに向かっていました。臨月のこの時期に100キロ以上、徒歩かろばかはわかりませんが、長旅をしなければならなかった。(代理登録ができず、期限も厳格に定められた、強制力のある調査だったと想像されます)
おまけにベツレヘムに到着したら宿がなく、家畜小屋をあてがわれ、そこで陣痛が起こって出産。
それはまるで、あらゆる不運が重なったかのような、神からも人からも見捨てられたかのような誕生でした。
ところがこのイエスの誕生は、数百年前に旧約聖書で預言されていました。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7章14節)
マリアが処女のまま懐妊し、救い主を生むことの予告です。
ここで言われている「インマヌエル」という名前には意味があり、「神が私たちとともにおられる」ということです。
その言葉どおり、30年後、イエスは多くの見捨てられた人たちの友となってくださいました。みなの嫌われ者だったザアカイは、「君の家に泊まりたいんだ」とイエスに言われ、感動して人生が変わりました。人目を避けて、太陽が照りつける真昼に水をくみに来たサマリヤの女は、「あなたにもう渇かない水をあげるからね」とイエスから声をかけられ、その驚きを町じゅうの人たちに伝えました。
さみしく心細い状況で生まれたイエス、そして30数年の生涯の最後には、だれからも見捨てられて十字架につけられたお方。
しかし、孤独と悲しみを知るお方だからこそ、私たちの孤独を知り、寂しさを知り、そしてともにいてくださることができるのです。
クリスマスが、私がこの宇宙の中でひとりぼっちではないと示された日です。私たちがどんなクリスマスを過ごしているとしても、神がともにおられることを覚えるとき、心に安らぎが与えられるでしょう。
成長するってどういうことだろう。
最近考える。
で、こんな風に考えた。
成長するとは、自分の価値観の上に、新しい自分以外の価値観を
積み上げていくことではないかって。
高校生の価値観って、まだまだ未熟。
もちろん我々もまだまだ未熟だけど。
でもちょっとだけ「先に生きている」、「先生」だから
少しはいろんな価値観を持っている。
自分の価値観に凝り固まらず、いろいろな物に触れ、
人と関わり、自分の価値観を広げていく。
それが成長するということなんだと思う。
素直になって、いろいろな価値観に興味を持とう。
取捨選択は出来るんだから。
聞く耳を持とう。
君の価値観が間違っているとは言わないよ。
でも、こんな価値観もあるんだということを知ろう。
そうすれば、君の考え方の幅が広がる。
君という人間が大きくなる。
それが成長するということなんだ・・・。
冬の風物詩といえば、、、、
あまり嬉しくないですが、インフルエンザに感染性胃腸炎。
相当数の生徒が罹患しており、注意が必要です。
うがい・手洗いは基本。くれぐれも皆さん気を付けましょう!
為替相場・・・あまり興味ないかもしれませんね。
今為替相場は円安に動いています。ついこの間まで110円に届かなかったのに、
昨日一気に117円台になってしまいました。
円安?円高?我々の生活にはどんな影響があるのでしょうか・・・
円安とは、例えば、1ドル100円が120円になるような状態のことを言います。100円が120円になるのだから、円が高くなるから、円高なので
は?と考えてしまう人も多いですが、それは間違いです。
100円で1ドルに交換できていたのに、120年出さないと1ドルに交換できなくなるので、「円の価値が下がる=円安」となるのです。
例えば、1ドル100円の時は、ラーメンが500円で食べられたのに、1ドル120円になると、同じラーメンの価格が600円になってしまう
ということです。ラーメンの材料である、小麦粉、調味料、具材などの価格が円安によって上がるので、このようにラーメン自体の値段も上がって
しまうのです。つまり、円安になればなるほど、ラーメンも牛丼もファストフードも、日用品や生活雑貨など全ての食品や商品の価格が上がってし
まうことになるのです。もちろんトイレットペーパーも、ガソリンも、です。
為替相場は予想が難しいです。様々な要素が絡みますから。トランプ大統領の就任、東京オリンピック・・・一説では今後も円安が続くとか・・・。
しかし昔は固定相場制で1ドル360円の時代がありました。そりゃあ、海外旅行なんて「夢」のまた「夢」だったんですね。
我々の生活とも直結する為替相場。まあ、注目してもどうすることも出来ないのですが、円高になるとどうなるとか、円安になるとこうなるんだ、
位の事は理解しておきたいですね。
4回連続で富山キリスト教会のホームページから・・・
<サンタクロースってほんとうにいるの?>
赤い帽子と赤い服を着た、真っ白なひげを伸ばしたおじいさんが、クリスマスの前の晩、空飛ぶトナカイのそりに乗ってプレゼントを届けにやってくる……。こどもたちは楽しい夢にワクワクですね。
サンタクロースのお話のもとになったのは、3世紀終わりごろ、小アジヤのミュラ(トルコ南西部)に実在した、ニコラウスという司教だと言われています。
貧しい人や困っている人たちを助ける慈悲深い人だったようで、こんなお話が伝わっています。
ミュラの町に3人の娘のいる家族が住んでいました。その家はたいへん貧しく、娘を身売りしなければならないほど、お金に困っていました。そのことを知ったニコラウスは、その夜、こっそりとその家に金貨を投げ込みました。娘は売られずにすんで、家族は助かったというお話です。
彼は死後、聖人とされ、聖ニコラウスと呼ばれるようになりました。
ニコラウスのお話が、時代を経るうちにいろいろと変化を重ね、現在のサンタクロースになりました。
赤服、白ひげのちょっと太ったおじいさんというイメージは、1800年代後半のアメリカの漫画家が書いたイメージから始まったそうで、1931年、コカ・コーラ社がキャンペーンに用いたことから、世界中に広まったそうです。
「サンタクロースって、本当にいるの?」
保育園児の娘の質問には、まずは「いる」と答えます。
さらに、ニコラウスのお話をしたうえで、「・・・だから、人を思いやる優しい心を持つなら、だれもがサンタになれるし、君だってサンタになれるんだ。そして、それこそ神様が私たちに願っておられることなんだよ」と話しています。
プレゼントをもらうことはとってもうれしい幸せなことですが、誰か他の人の幸せのために私にも何か出来ることはないかと考えて、そしてプレゼントを贈る側の人になれたなら、それはもっとうれしい幸せなことだと思うのです。
幼いこどもたちにとって大切なのは、自分のためにプレゼントをしてくれる人がいる!という喜びを経験すること。そして、その喜びを体験した上で、今度は自分も自分以外の人を喜ばせる人になるってことではないでしょうか。
4日前から始まった「クリスマスシリーズ」。今日はサンタクロースのこと。知ることで親しみが湧く。ふ~ん、そういうことだったんだ!
今年のクリスマスは、ちょっと例年と違う感覚で迎えられそうな気分になってきました!
昨日の富山キリスト教会のホームページから、キリスト教の誕生日について・・・
今年は西暦2005年ですから、今年のクリスマスはイエス・キリストの2005回目の誕生日ということになります。
が、イエス・キリストの実際の誕生年月日については、正確にはわかっていません。
まずイエス・キリストが生まれた年についてですが、私たちが現在使用している西暦は、イエス・キリストが誕生した年を基準にして紀元前(BC)と紀元後(AD)に分けられています。BCは、英語のBEFORE CHRISTの頭文字で、「キリスト誕生以前」という意味、ADはラテン語のANNNO DOMINIの頭文字で、「主の年の」という意味です。イエスの誕生した年が紀元1年です。これを決めたのは、6世紀のディオニシウス・エクシグウスという人ですが、現在、これには4年から7年の誤差があることがわかっています。
聖書の記述によれば、イエスが誕生したのは、ローマ皇帝アウグストゥス(在位BC27~AD14)が、帝国の全住民に住民登録をせよとの勅令を出した年で、その住民登録はキリニウスという人物がシリア州の総督であったときに行われた最初のものであったとあります。ここからローマ帝国時代の歴史記録などを研究して、イエスの誕生は紀元前(BC)7年から紀元前(BC)4年の間と考えられています。(他にも諸説ありますが、イエスの歴史上の実在を疑う学者はおりません)。
次に日にちですが、イエスの誕生が12月25日であったとの記録は聖書にはありません。12月25日はもともとローマの冬至祭で太陽の誕生日として祝われていました。それをキリスト教は「イエスこそ、世を照らす真の太陽である」とし、5世紀ごろからイエス・キリストの誕生を祝うキリスト教の祭りとして取り込んでいったようです。
ですから、クリスマスはイエス・キリストの誕生日というより、「誕生を記念して祝う日」というのが正しい言い方になるでしょう。
私、てっきり12月25日が誕生日だと思っていました。調べてみないと分からないものですね!
最近部活で怪我が多いんですよ。
例年に比べても、多いんだよな~
そうだ、そういう時はお祓いしよう!そうだそうだ!
んっ?でもうちはキリスト教主義の学校・・・お祓いって神社だよな~
ということで、調べてみたら、こんな記事がありました。
(富山キリスト教会のホームページより)
そういえば、お祈りはしますけど、お祓いはしませんねえ。
ちょっと辞書を引いてみました。
「お祓い」…神社で行う祓いの神事。
「祓い」……神に祈って罪・けがれなどを除き、身を清める神事。
「厄」………わざわい。苦しみ。
「厄除け」…災難を払いよける・こと(方法)。
神社、神事とあるように、基本的には神道で行われることですね。
浄土真宗ではどうでしょう。
浄土真宗では、人生に起こる不安や苦悩を占いや迷信などで解決しようとするのは、かえって不安を助長することになるから、それに頼らないほうがよいと教えているようです。不安や苦悩を避けるのではなく、むしろそれを正しい態度で乗り越えようという考え方なのだそうです。
さて、それではクリスチャンは事故やケガ、不幸が起きたとき、どうするかですが、やはりお祈りしますね。
しかし、それはお祓い的な感覚ではありません。もちろん、「神様、私を災いからお守りください」というお祈りは普段から普通にしますが、同時に災いと呼ばれる事故やケガ、不幸は人間が生きていくうえで起こりうるものであると認識しています。
「神が愛なら、どうしてそのような苦しみを与えるのか。」
しばしば聞かれる質問です。
私たちはこう受け止めています。
「神は愛である。その神があえて苦しみを与えられたのだから、そこには何か深い意味がある!」
たとえば、それは神を忘れて生きている私たちに、神を求めさせるための神の注意信号かもしれません。あるいは、私たちに何かを気づかせたり、私たちを成長させるための神の試練かもしれません。また、私たちにはわからないけれども、神の深いご計画を実現するためのものであるかもしれません。
私たちは祈りの中で、そうした苦しみの意味を探り求め、それを正しく受け止め、正しく対処できるように、神の助けを求めていくのです。
とありました。うん、私はクリスチャンではないけれど、特に下線部を引いたところなんかは凄く共感できますね。その意味を考えて、前向きに捉える。これが一番いいのかもしれませんね。
でも、怪我が多いのは心配…。う~ん、何とかならないかなぁ・・・。
例年ですと、12月は寒いけど雪は降らず、年明けからドバっとくる・・・みたいな感じだったのですが、今年はこんな感じ。降り続いて積雪何センチ!にはならないですが、朝は真冬。ウチは高台にあるので、こんな感じになったのですが、それにしても、今年はちょっと例年よりは寒いですね。
まあ、生粋の福島人に聞くと、12月はもともと雪は降る。最近が降らなさすぎだったんだよ、とのことですが・・・
礼拝堂の蝋燭も3本目。クリスマスが刻々と近づいていますが、さて、キャンドルの意味って皆さん知っていますか・・・?
以下、ネットから引用して紹介します。
12月25日のイエスキリストの誕生を祝う事がクリスマスの起源と言われています。
クリスマスを祝うことが重要なイベントだと思われがちですが、クリスマスの準備をすることからとても重要な行事であることを知っている人は少ないと思います。
さて、電気があって明るいのに、なぜクリスマスにはキャンドルを灯すのだろうと疑問に思う人もいるかもしれません。
クリスマスキャンドルは、この世を照らす光としてキリストの象徴であり、意味を持ったアドベントキャンドルを灯すことでキリストの生き方を象徴しているというわけです。
照明という意味合いよりも礼拝する上での象徴的な意味合いがあるということなんですね。
本来はクリスマスの12月25日当日よりも、それまでの準備期間がとても大事な期間であると考えられています。
クリスマスイブの直前の日曜日から数えて4週前の日曜日からクリスマスの準備を始める風習を「アドベントキャンドル」と呼んでいます。
アドベントキャンドルとは、クリスマスリースに4本のろうそくを並べ、毎週日曜日に1本ずつキャンドルを灯していき、4週目の日曜日には4本すべてのキャンドルを灯していくという行事です。
5本目のキャンドルをを真ん中に立てる場合もあります。最後の5本目はクリスマスイブかクリスマス当日に火を灯します。
この、4本または5本のキャンドルですが、1本1本に名前と意味があります。
アドベントキャンドルの由来
クリスマスの1ヵ月も前から当日に向けて準備をすることで、日々の生活に感謝しながら生きていくという大切なイベントがアドベントキャンドルなのです。
現在はクリスマスはイベント化され、パーティーやプレゼント交換といった意味合いが強くなっています。
そんな中でもキャンドルをさりげなく利用して本来のクリスマスを演出してみてはいかがでしょうか。
(引用 http://www.thousand-happy.jp/495.html)