最近部活で怪我が多いんですよ。
例年に比べても、多いんだよな~
そうだ、そういう時はお祓いしよう!そうだそうだ!
んっ?でもうちはキリスト教主義の学校・・・お祓いって神社だよな~
ということで、調べてみたら、こんな記事がありました。
(富山キリスト教会のホームページより)
そういえば、お祈りはしますけど、お祓いはしませんねえ。
ちょっと辞書を引いてみました。
「お祓い」…神社で行う祓いの神事。
「祓い」……神に祈って罪・けがれなどを除き、身を清める神事。
「厄」………わざわい。苦しみ。
「厄除け」…災難を払いよける・こと(方法)。
神社、神事とあるように、基本的には神道で行われることですね。
浄土真宗ではどうでしょう。
浄土真宗では、人生に起こる不安や苦悩を占いや迷信などで解決しようとするのは、かえって不安を助長することになるから、それに頼らないほうがよいと教えているようです。不安や苦悩を避けるのではなく、むしろそれを正しい態度で乗り越えようという考え方なのだそうです。
さて、それではクリスチャンは事故やケガ、不幸が起きたとき、どうするかですが、やはりお祈りしますね。
しかし、それはお祓い的な感覚ではありません。もちろん、「神様、私を災いからお守りください」というお祈りは普段から普通にしますが、同時に災いと呼ばれる事故やケガ、不幸は人間が生きていくうえで起こりうるものであると認識しています。
「神が愛なら、どうしてそのような苦しみを与えるのか。」
しばしば聞かれる質問です。
私たちはこう受け止めています。
「神は愛である。その神があえて苦しみを与えられたのだから、そこには何か深い意味がある!」
たとえば、それは神を忘れて生きている私たちに、神を求めさせるための神の注意信号かもしれません。あるいは、私たちに何かを気づかせたり、私たちを成長させるための神の試練かもしれません。また、私たちにはわからないけれども、神の深いご計画を実現するためのものであるかもしれません。
私たちは祈りの中で、そうした苦しみの意味を探り求め、それを正しく受け止め、正しく対処できるように、神の助けを求めていくのです。
とありました。うん、私はクリスチャンではないけれど、特に下線部を引いたところなんかは凄く共感できますね。その意味を考えて、前向きに捉える。これが一番いいのかもしれませんね。
でも、怪我が多いのは心配…。う~ん、何とかならないかなぁ・・・。