幼稚園の頃、親が仕事で家にいない時間、近所のおばさんが来てくれて、ずっとカルタで遊んでくれた。それであいうえおを覚えて以来、本が好きになり、文字 を読むとか言葉を紡ぐとか、文章を組み立てることのおもしろさを感じて育った。中学高校の片道2時間の通学時間は、まるで図書館で過ごすかのように、本を 読むことに費やした(1日1冊をノルマと課していた)。
もちろんたくさん読むことそれ自体がすばらしいというのではないが、たくさん読むことに よって培われる感覚や情緒がある。私が務めていた月刊誌編集長の職を辞して牧師になるとき、後任の編集者の条件のひとつとして、「本を千冊以上読んでる 人」をあげて神さまにお祈りをした。まあ、いまもう一度祈るとしたらそうは祈らないかもしれないけれど、神さまはその祈りにも答えてくださった。
いろんなものを読んできた者として、ひとつ言えることは、「聖書」は他の本とはまったく次元のちがう、別の存在だ、ということだ。
それは、人の言葉とはまったくちがう。世には、知恵や工夫に満ちた言葉、美しさや優しさにあふれる言葉はたくさんある。示唆や導きを与え、私たちを教え導 く、人生を変えるような言葉に出会うこともある。しかし、神の言葉は、それらをはるかに超えていて、確固たる真理。揺るがない真実。私たちの存在を規定 し、私たちの未来を指し示す、信頼できる言葉である。
それを新約聖書はこう表現した。
「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
この11月、聖光学院の朝の礼拝説教をまとめた「聖光学院高校礼拝説教2012」が発行された。このことは、本校が「神の言葉に価値を置く学校である」ということを明確にしたという意味で、画期的な出来事であったと思う。
みなさんには、朝の礼拝で語られた神の言葉について読み返すとともに、ひとりひとりにとって大切な神の言葉を見つけてもらいたい。学校生活にはさまざまな 営みがあり、今学期も、この1年も、記憶に残る出来事はたくさんあっただろう。しかしそれ以上に、神の言葉を探し、見つけ、心に刻んでいただきたい。
さあ、クリスマスが終わったいまこそ、聖書を開き、神の言葉を心に迎え入れよう!(辻)