昨日、野球部の2軍が仙台育英と練習試合を行うために仙台を訪れました。
2試合とも試合展開が早く、思っていたよりも仙台育英高校を出発する時間が早かったので、すぐ近くの仙台港までバスを走らせました。
1995年1月17日、阪神淡路大震災が起きました。当時の被災地だった神戸は、私の親戚が住んでおり、悲惨な映像を流すテレビのニュースを見ながら心配していたのを思い出します。私はこの時前任校で寮の舎監をしていたこともあり被災地に行くことは出来ませんでしたが、私の兄が現地に1ヶ月位してから行ったのです。
その時は兄は、親戚の叔父に「何でもっと早く来なかったんだ!! 今はよっぽどいいけど、一番大変なときに来なきゃだめだ!」と怒られたそうです。それは手伝いに来い!!と言うことじゃなく、「これからの世の中を支える若い世代は、この震災の一番大変な状況を目の当たりにし、肌で感じて、これからの人生に生かしていって欲しい」という、叔父の心からの叫び、訴えだったのです。
そのことがずっと頭にあった私は、野球部の生徒にも、今の状況をしっかり見せたほうがいいのでは、と感じたのです。今福島も原発の被害があります。でも見た目は平常を取り戻しています。しかし、震災から2ヶ月が経った今一度震災を感じ、「生かされた命」をどう使っていくのか、を感じてもらいたいと考えました。
仙台港へと向かうわずか10分弱の時間、1本道を奥に入ると、全く違う光景、目を疑う光景が・・・。両サイド、道端は瓦礫・瓦礫・瓦礫の山・・・。そして無造作に焼け転がる車の数々・・・。テレビで見るのとは、やっぱり感じ方も全然違います。生徒たちも神妙な顔つきで瓦礫の山を見つめていました。
昔、パスカルという哲学者が「人間は考える葦」であると言いました。「自然の前では葦も人間も同じような弱い存在だ。しかし人間は考える葦でる」というのです。人間は津波という巨大な自然の猛威には本当に無力でした。数多くの人が命を落とし、生き残った人にも多くの悲しみを残しました。
しかし、我々は生かされた。生かされたからには、「これから」を担っていかなくてはいけない使命があります。聖光学院の生徒には、この震災を忘れることなく、自分の命を大切にしながら、その生かされた命を世の中のために使う人となって欲しいと願っています。
・・・・・・・・人間は考える葦である・・・・・・・・人間が考えに考えた末に造られた原発に、今最も苦しめられている・・・。何とも皮肉なことです・・・・。(Yokoyama)