私は、今日の聖書には大切な言葉が三つあると思います。それを順に話したいと思います。
第一は、45節の「イエスは弟子たちを強いて船に乗せ」の「強いて」です。弟子たちの希望に関係なく、イエス様は強いて(無理矢理)弟子たちだけで船を漕ぎ出させました。英語の聖書にも「make」という使役動詞が使われています。今学んでいる『マルコによる福音書』は、イエス様の一番弟子であったペテロの想い出が基本となって書かれました。復活したイエス様は、かつて自分を裏切ったペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と三度繰り返し命じました。
更に「行きたくないところへ連れて行かれる」と、ペテロに殉教の予告をしています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(『ヨハネ』21:19)と聖書に書かれています。私たちは自分で描いた夢や希望に向って、自分の思うように進んで行きたい者ですが、聖書には「人には様々な計画があるが、ただ神のみ旨だけが立つ」と書かれています。私たちは結局、神様の導きのままに生きて行く者であることを語っています。
第二は、48節の「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいる」の「逆風」です。「向かい風」と言っても良いでしょう。「順風」や「追い風」の反対です。弟子たちが夜の暗いガリラヤ湖で逆風に悩まされたように、私たちの人生は順風の時よりも逆風の時の方が圧倒的に多いのです。それは避けられないことです。でもその時、一人で悩み苦しむのか、イエス様という愛のお方をお傍に迎え、頼みとするのか、そこには大きな違いがあるのです。
第三は「イエスが船に乗り込まれると、風は静まり」です。私たちの人生と言う船にイエス様をお迎えすれば、風は静まるのです。全てが一挙解決とは行かなくても、安心と平安に満たされます。私の大好きな聖歌に「人生の海の嵐に」という曲があります。その一節に「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も 不思議なる神の手により 命拾いしぬ」とあります。皆さんも是非、自分の船にイエス様を迎え入れて下さい。
もう亡くなりましたが、榎本保郎という牧師がいました。淡路島の生まれ育ちで、若い頃から波乱万丈の人生でした。でも同志社大学神学部に入り牧師になることを目指しました。学生時代から余りに積極的だったことで誤解を受け、誰一人来ない長屋の一部屋で礼拝をしていました。日曜日、礼拝の準備をして待っていても誰一人来ないのです。仕方なく、毎週、壁に向って説教していたそうです。そんな状態が何か月も続きました。でも榎本青年牧師は、挫けず、諦めず、毎週日曜日、誰も来ない部屋で壁に向って大声でイエス様の愛を語り続けました。そして遂に一人来ました!隣の部屋に住むお婆さんでした。お婆さんは、「毎週日曜日になると、あんたの大きな声が私の部屋まで聞こえて来る。耳を塞ぐことも出来ないし、買い物だと言ってに外に出ることも出来ず、結局あなたの話を聞いていた。段々、イエス様って素晴らしいお方なんだな-と思うようになってきた。そして今日初めて礼拝に来たのです」との話でした。
人生には「強いられること」、「逆風に妨害され続けること」が多いのです。でも自分の人生の船にイエス様をお迎えする時、ガリラヤ湖の突風が止み波静かになったように、私たちにも、この榎本先生のような祝福と奇跡が追いかけて来ることを信じましょう。
尚、榎本保郎牧師のことをもっと知りたい人は、三浦綾子さんの書いた『ちいろば先生物語』という本を読むことを勧めます。