クリスマスやイブをだれと過ごすかが多くの人の関心となっています。最近は、クリスマスをひとりで過ごす「クリぼっち」が増えてきたというので、「クリぼっち」向けのお店や商品もあるそうですね。この呼び方自体、「クリスマスなのにひとりなんだ」というさみしい気持ちや、「さみしくなんかない、私はこれでいいんだ」という強がりな気持ちが表れているかもしれません。
いまから2016年とちょっと前、最初のクリスマスも、そんなさみしい、心細い気持ちになりそうな夜でした。
ヨセフとマリア、このユダヤの若夫婦は、ローマによる人口調査の登録のため、生まれ故郷のベツレヘムに向かっていました。臨月のこの時期に100キロ以上、徒歩かろばかはわかりませんが、長旅をしなければならなかった。(代理登録ができず、期限も厳格に定められた、強制力のある調査だったと想像されます)
おまけにベツレヘムに到着したら宿がなく、家畜小屋をあてがわれ、そこで陣痛が起こって出産。
それはまるで、あらゆる不運が重なったかのような、神からも人からも見捨てられたかのような誕生でした。
ところがこのイエスの誕生は、数百年前に旧約聖書で預言されていました。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7章14節)
マリアが処女のまま懐妊し、救い主を生むことの予告です。
ここで言われている「インマヌエル」という名前には意味があり、「神が私たちとともにおられる」ということです。
その言葉どおり、30年後、イエスは多くの見捨てられた人たちの友となってくださいました。みなの嫌われ者だったザアカイは、「君の家に泊まりたいんだ」とイエスに言われ、感動して人生が変わりました。人目を避けて、太陽が照りつける真昼に水をくみに来たサマリヤの女は、「あなたにもう渇かない水をあげるからね」とイエスから声をかけられ、その驚きを町じゅうの人たちに伝えました。
さみしく心細い状況で生まれたイエス、そして30数年の生涯の最後には、だれからも見捨てられて十字架につけられたお方。
しかし、孤独と悲しみを知るお方だからこそ、私たちの孤独を知り、寂しさを知り、そしてともにいてくださることができるのです。
クリスマスが、私がこの宇宙の中でひとりぼっちではないと示された日です。私たちがどんなクリスマスを過ごしているとしても、神がともにおられることを覚えるとき、心に安らぎが与えられるでしょう。