先月あるクラスの授業で取り上げた英語表現(be supposed to)から、思い浮かんだことを気ままに書いてみます。辞書などでは、大方、be supposed to :「~することになっている」という語義記載があると思います。supposeは「思う」。be supposedで「思われる」。さて、あなたが、「私は今日10キロの道を歩いて帰ります!」と教室で宣言したとします。それを聞いた周囲は「この人は10キロの道を歩いて帰るのかぁ」と「思う」。あなたはそう「思われる」。だから「そういうことになっている」のはみなの了解するところです。こうなると決意を翻すのもなかなか大変ですよね。引き合いに出した例がマイナスイメージでしたが、be supposed to自体はニュートラルな表現です。
前置きが長くなりました。周囲の目を過剰に気にして委縮していませんか?元々周囲に右ならえの雰囲気がプンプン漂う社会空間の恩恵とストレスの両方を受けている私たちですが、人生には独り決断しなければならないことが、思いがけずたくさんあります。その時にbe supposed toを乗り越える勇気って大事じゃないでしょうか?自分で感じ、考え、悩み答えを出す。他の誰の人生でもないたった一度の自分の人生。客観式四択試験のような正解などない人生。悩み苦しんだ末出した自分の答え、それが唯一の「その人の正解」、というフィールド。周囲と自分との関係を単純な白黒思考で切ってしまうのでもなく、ひたすら自分を押さえこんで合わせるのでもない、第三の視点を心に宿しながら、天命尽きるまで走り続けましょう。一生青春!(感情と理性、冷静と情熱、相反する二つの間を自在に行き来する本当の知性を身に付けたいものです。自戒の念をこめて)