2018年11月27日(火)
朝 の 説 教
〈あなたたち偽善者は不幸だ〉(『マタイ』23:13~15
1 簡単な説明
この13節から「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ」
というイエス様の言葉が、7回も繰り返し出て来ます。原文を忠実に訳すと「不
幸だ(わざわいだ)!律法学者たちとファリサイ派の人々よ」となり、不幸を強調
する文になっています。そして一回ごとに、イエス様がその理由が語っていま
す。読んでいくと、「イエス様、そんなに何度も批判しなくても」と言いたくな
る位です。
彼らはそんなに悪い人たちだったのでしょうか?律法学者は律法(法律)の
解釈を職業とする学者です。イエス様の時代には絶大な権力をもち、70人議
会にも多く加わっていました。当時の指導者・エリートたちでした。ファリサ
イ派の人々は、モーセの律法にひたすら忠実であろうとした人たちで、あまり
に厳格なために周りから「ファリサイ」、つまり、まわりと全く違った人たち(分
離された人たち)というニックネームで呼ばれていました。
彼らの最大の欠点は、自分に対する絶大な自信です。「自分は間違っていない。
自分は絶対正しい。自分こそ神に最も喜んでもらえる存在だ」という自負、傲
慢さです。彼らには弱い人、苦しんでいる人、差別されている人へのいたわりや同情はありません。自分は言うだけで何一つ実行せず、人に負いきれないよ
うな重荷を負わせ、自分からは指一本貸そうとしない人たちでした。表面と心
の中が大きく違うので、イエス様から「偽善者」と呼ばれました。偽善者とは
元々のギリシャ語では「ヒュポクリテース」と言い、ここから英語のヒポクリ
シーが生まれました。彼らの熱心さ、真面目さは素晴らしいのですが、心に優
しさや愛情が欠けていました。加藤常昭という牧師は説教の中で「私どもの中
で誰もが、ああ、あの人は本当に立派なクリスチャンだ、立派な牧師だ、立派
な長老だ、と言い得るような人こそ、律法学者、ファリサイ人に最も近いと思
った方が良いでしょう。しかもその人たちは自分の悪さに気づいていない人た
ちです」、と語っています。
2.偽善者
私は25歳で洗礼を受けてクリスチャンになりました。世間の方は「クリス
チャンとは生真面目で正直な人」と思っているのでしょうか?私は仲間の先生
方から「偉そうにしているなー」とか、「付き合いにくいなー」とか何度も言わ
れました。同じ教会に通っている人からも、「偽善者!」と罵られたことはあり
ませんが、「それでもクリスチャンなの?」と何度も言われました。私は自分自
身を、自分勝手て、怒りっぽくて、欠点だらけの人間だと思っているので、全
く反論はしませんでした。でも心の中ではパウロの言葉、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なんだろう」
という叫びを思い出していました。聖書が語るように「義人なし、一人だにな
し」なのです。でもその自分の持つ悪に気づくか気づかないか、最終的にイエ
ス様にすがるかすがらないか、ここが大事です。ここが分岐点です。
律法学者やファリサイ派の人たちには、人を裁く目はもっていても、自分の
悪や、愛の欠如、優しさに欠けるところを見る目がなかったし、イエス様にす
がって生きてゆくことを拒否した人たちでした。
3.例話
カトリックのシスターで既に亡くなられた渡辺和子さんが書いた『忘れかけ
ていた大切なこと』というエッセイ集があります。私の愛読書の一つです。そ
の中に「ピーマンと私」という短い文があります。30代で大学の学長になっ
た渡辺さんは年上の先生たちに妬まれ、重度のノイローゼになってしまいまし
た。テレビで見る渡辺さんはいかにも柔和で、優しくて、心の中にどうしても
許せない人がいるなんて想像できません。でも本の中で正直に「人間には食べ
物にしても人間同士の間でも、どうしようもない好き嫌いがあって、意志の力
ではコントロールしようのないケースがあります、私の嫌いな食べ物ピーマン
になぞらえて、私は私の嫌いな人を『ピーマン的存在』と呼んでいます。誰に
でも、うまの合わない人、気に入らない人、出来ることなら一緒にいたくない人が一人や二入はいるのではないでしょうか?それが「ピーマン的存在」で
す」と書いています。
これは聖書の教え「隣人を自分のように愛しなさい」に違反しています。で
も、これが人間の実際であり、だからこそイエス様にすがることが必要であり
大切だということを、今日の聖書は教えてくれています。